浄土宗 法玄寺

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鐘楼の再建

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当山は明治18 年(1885 年)の火災により堂宇伽藍をすべて焼失しました。本堂と庫裡の再建はすぐに行われましたが鐘楼の再建は遅れ、ようやく明治32 年(1899 年)に再建を見ました。しかし明治、大正、昭和、平成、令和と星霜を重ね、鐘楼も老朽化が進んだためこの度、檀家の人たちの協力を得て再建することにしました。
なお鐘のことを正式には梵鐘(ぼんしょう)といいます。梵とは「神聖で清浄なもの」を意味します。ですから梵鐘の音は仏様の声であると解釈され、鐘を撞き、鐘を聴くことは仏様の声を聴くことで、心身が清浄になると言われます。

クリックにて拡大新しい鐘楼の設計は社寺建築に造詣の深い建築家の岡田真晴さんに依頼しました。施工は、同じく社寺建築を専門に行う赤石建設に発注しました。令和7 年6 月から工事に着手しました。
旧鐘楼をまず解体しました。梵鐘はクレーンで吊り下げて移動しました。この鐘は再建期間中、施工を担当した赤石建設の倉庫に養生して保管しました。


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令和7 年11 月に棟上げ式を行いました。写真、前列左から赤石建設社⾧の赤石光雄さん、建築家の岡田真晴さん、住職、副住職、赤石建設専務の赤石憲祐さんです。後列は大工の人たちです。
棟上げ式ではまず法要を行い、住職が表白を読み上げました。その後、大工さんたちが建設中の鐘楼の棟に登り、掛け声に合わせて古式ゆかしい行事を行いました。

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令和8 年の3 月に鐘楼本体は完成しました。4 月にコマセ・ランドスケープ・プラニングにより周辺整備を行い、ようやく1 年近くかかった鐘楼は完成しました。
旧鐘楼との大きな違いは、腰回りの貫(ぬき)がないことです。旧鐘楼では、耐震のために貫が周りにわたされており、出入りのたびに貫の下をくぐらなければなりませんでした。
このため、大晦日の除夜の鐘の際には多くの人たちが撞くたびに出入りするのが大変でした。


令和8 年5 月24 日の日曜日、先代住職の13 回忌法要を営みました。法要の後で撞初式(つきぞめしき)を行いました。まず法要を行い、住職が表白を読み上げ、明治時代の鐘楼
の建設から今日の老朽化を述べ、再建の意義を話しました。
次に鐘楼に住職、4人の総代、建設関係者が上がりました。
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住職が捨て鐘をまず撞きました。その後、総代と工事関係者が撞き、最後に住職が止め鐘を撞き、無事に撞初式を終えました。見守った世話人の方々は、300 年以上も前に作られた梵鐘の余韻の美しさに感心していました。

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当山の梵鐘は、元禄4 年(1691 年)に以前の鐘を改鋳して作られました。この梵鐘には足利学校第14 世庠主の久室の銘を刻しました。
先の大戦中、金属不足を補うため日本全国の寺院のほとんどの梵鐘は供出されました。その際、郷土史家の丸山瓦全翁がこの足利学校庠主の銘のある梵鐘は貴重な文化財であると保存を各方面に呼びかけ、その結果供出を免れました。こうして供出を免れた当山の梵鐘は、300 年以上の歴史を伝える美しい余韻を響かせています。

クリックにて拡大鐘楼堂の完成を祝して阿部石材店が記名版を製作し、寄付してくれたので、鐘楼堂の台座の前面右に設置しました。記名版には黒御影で白く住職名、檀徒総代、設計者と施工業者が刻字されています。



開山の由裡
 法玄寺は、足利尊氏六代先祖の足利義兼の正室であった北条時子姫の菩堤の為に建立されたと伝えられております。北条時子姫は北条時政の娘で足利義兼の室として足利に住んでいました。北条時子姫は夫の義兼が鎌倉に滞在中腹部が膨れて妊娠したような状態になりました。
(続く)


第二十四生 和田幸信
 私は浄土宗の僧侶として異色の経歴を持っています。東京工業大学(現 東京科学大学)の建築学科を卒業し、その後大学院へと進みました。在学中に浄土宗の僧侶育成講座に参加し、さらに総本山の知恩院で加行を受け僧籍を得ました。
(続く)


境内と本堂・庫裡
 法玄寺の北側から、日光連山へと続く関東山地が始まります。
また歩いて数分には、日光足尾銅山から清流を集めた渡良瀬川があり緑と清流に囲まれた自然豊かな風情を楽しめます。 季節の折りに触れ是非、足利・法玄寺にお越しください。
(続く)

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